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四季があることの無駄とQOLを考える。 [日本本帰国?]

結局、タイと日本でいちばん違うところはやっぱりやっぱりやーっぱり、四季の有無だと思う。


タイにだって、雨季と乾季という季節はあるし、それなりに生活は変わるけど(プーケットなどのビーチリゾートは特に)、常夏であることに違いはない。


で、日本の冬が寒くて嫌いで、夏が大好きなわたしは、ずっと夏であるタイに憧れた。


そしてそれはもちろんとても良かったけど、数年すると無い物ねだりを少しずつ感じ始めた。


というか、ちょっとした焦りに似たもの。


四季を愛でるという日本人の生活、DNAに深く根ざしたものがないことはなんだか自分が大味になるような気がした。


さて、でも日本に帰ってきてみると、本当にまあなんてめんどくさくて、なんて無駄が多いのだろうと思う。


わたしたちは季節に備える為に、どれだけの労力を費やしているのだろう。


呆れるほどである。


もはや私たち日本人にとっては、四季に備えること=生きること、生活なんであった。


それを思い出して、、、というか、タイに住む前はそれが当たり前であったからそんなことあまりそういう捉え方はしていなかったかもしれないが、、、タイから帰ってくると呆然とするほどだ。


もちろんそれを楽しんでいるのが、我々の生活だ。


厳しい寒さと厳しい暑さを切り抜けるためのグッズを常に追い求めている私たち。


四季があることは当たり前だから、それに疑問をいだかなかったけど、タイ生活を一旦知ってしまうと、なんて無駄なんだろうと思ってしまう。


だいたい冬物は嵩張るし、高い。

コートも、羽布団も、ウェットスーツも。


それでもって、それを利用する期間は一年のうちの半分もないときた。


冬物衣料、夏物衣料、春秋用・・・タイ生活の何倍も衣類を持つことにもなる。


出番がない季節には、それを保管する場所もいる。


うわあ。。


まあそんなわけで、私はタイに行く前と行った後で考えが変わったことがある。



一つは、世界中のどこでも生活できる可能性を信じることができるようになったこと。


定住には定住の魅力があるけれど、ヤドカリのように好きなところに住んで行くっていうやり方もあり。


もちろんイイトコどりも可能。

つまり、土地が安くて環境や気候がいい、自分の気に入った場所に家を買っておく。


そしてそこを拠点に、あとは仕事がしやすい都会などにも仮の拠点をおく。

仮の拠点はその時々でコロコロかえたっていい。


そういうことは意外とやりようによっては可能だなということ。


もちろん子持ちの人は話が違うかもしれないけど。



で、そうなった時に、モノの管理維持や、移動コストなどを考える。


というわけでね、冬物衣料を一つ買うにも、重いものや嵩張るものは敬遠するようになった。


だいたい洗濯ひとつ取ったって、乾きづらかったり、洗濯機を占領したりと、ストレージやトランクを占領するだけでなく、嵩張る衣料にいい点はない。


ミニマリストが必ずしもいいとは思わない。


でもやっぱり在庫が少なくて身軽なほど、機敏に動けるし無駄が少ないのは確か。



二つめは、短期的な視点でモノを選んで行こう、ということ。


例えば部屋。


色々と選びに選んで、立地も環境も間取りも、そしてお家賃も、サイコー!!と思える物件を見つけて東京暮らしを再開した私。


選び抜いて決めただけあって、日々、喜びに溢れている。


QOL、Quality of Lifeが高い、とぬくぬくしてしまう。


もちろん自分内比較だし、別にタイ暮らしと比較してということでもない。


ただ、自分が気に入っている部屋だけに、部屋にいるだけで気分が良い。


家賃が安いから、その分心の余裕がある。


普通ならもう15000円くらい家賃に払うだろうところを、月15000円分の余裕があるわけだから、これで自分を楽しませるもの何を買おう?


と考える。


それも、心の隙間を埋める、疲れをいやす、というような不毛な使い方ではなくて、QOLをあげるためのツールに使おうという計画は、考えるだけでワクワクする。


タイにいる時は、お金の余裕がない、という気持ちが強かった。


生活費は安いのだから、必ずしも余裕がないとは言えないのだけど、感覚として。


よって、そういう気持ちは持てなかった。


またあまりにもノマドだったので、多少不便でも、またの移動を思って、カスタマイズしないことも多かったけど、今回はとりあえずは2年は住む意気込みなので、それなりに部屋を築き上げようとできるところも楽しい。


とはいえ。


結局、日本は冬と夏で全然環境が違う国なのだ。


南向きで暖かく、今の季節は素晴らしい部屋。


でも、初めて迎える来年の夏、感想は180度違う可能性がある。


もちろん夏のことも考えて部屋は選んでいる。

暑すぎたら簾でもかければいいし、風通しもいいし、どうにでもなるだろうと思う。


だけど、実際に夏が来なければわからない。


それでも身軽だから、夏が来て、どうにも住み心地が悪ければ、どこか他を探せばいいじゃないか、という気楽さがある。


この感覚はいいなと思うし、それでいい気がする。

一生物、という言葉はあるけど、今の時代、そんなものはあるだろうか?


ガジェット、家具がどんどん進化し、それによって暮らしも変わる。


もちろんなんだかんだ20年も愛用しているものもあったりして、気に入っていて使い心地が良いものは、なんだかんだずっと使えたりすることもある。


でもそれは結局、愛着ゆえ。


愛を感じられるものを買えば、それは結果的に長く使えるし、使っている時にウキウキできればQOLが上がるから、正しい選択だけど、2年最高に愛せればいいかな、というそれくらいの短期視点で考えての購買でいいかなと思うようになった。


三つめ。日本の街を歩いていると、ふと「神は細部に宿る」という言葉が脳裏に浮かんだ。


例えば日本にいる日本人女性の美しさ。

まず肌が綺麗。そのメイクアップの質感が素晴らしい。

髪の毛が綺麗。洋服の質感に高級感がある。


最近のファッションの傾向というのもあるけど、当然の帰結というか、ある程度機能やデザインなどが発達し尽くして差別化し難くなったら、ラグジュアリーさとか高級感とかで差別化を測るのは、スマホでも車でもソファでも服でもそうかしら、、というのかしら。


日本では「質感」で差別化をはかるんだよなあ、、みたいなことを改めて実感した。


タイではまだ、デザインが可愛ければそれでいい、というところがある。

日本だと、デザインが可愛いだけじゃあダメだ。

服の素材がペラペラだったりすると、安っぽくてNGに見えてしまう。


これは結局、他者との比較なんだけどね。

タイではみんながぺらぺらの素材の服を着ているから、自分が着ていても安っぽく見えない。


ところが日本だと、みんなが高級感ある素材を着て歩いているから、自分がペラペラの素材を着ていると安っぽさが際立ってしまう。


まあ美の基準は環境によって変わるということで、それはそれって感じもある。


でもまあ、そういう質感とか細部とかにこだわれるというのも、QOLの高さに通じるなーと思う。


せっかく東京に戻ってきて生活を送ることになり、思うことは、QOLだ。


タイライフ。


QOLは決して低くはなかった。それをはかる尺度は東京ライフとは全然違うけど。


アウトロー的な気持ちの自由さ、外国に住むという経験のエキサイティングさ、新しい経験を得られる度合い。


一方で、強い紫外線で確実に老化は進むし、現地採用の場合、給与が不十分だと感じることで、自己卑下的な気持ちになるストレスもある。


東京ライフにはまた違う良さがあるけど、結局のところ幸せや心の余裕をどれだけ感じられるか、どれだけ未来に繋がる糧や経験を得られるか、かなあ。


東京には、出稼ぎ気分で帰ってきたところはある。


たかが金、されど金。


あとは私の分野がITであることから、最新ガジェットやテクノロジーが活きる街でまた生活をすることで、最先端をここらで味わわないとなんか感覚がずれていってしまうんじゃないかという恐怖が大きいかな。


別に南の島で、ローテクでも、QOL高く幸せには暮らせるんだけど、テクノロジーはテクノロジーで楽しいところがあり、そっちと行ったり来たりしたいところはある。


というわけで、せっかく東京に帰ってきたんだから、テクノロジーに浸かりつつ、金を稼ぎつつ、会社員としての蜜を吸い、経験を蓄えつつも、、やっぱりQOL下がっちゃ意味ないなー、で、東京ライフでのQOLってなんだろ?と思ったりする東京2ヶ月目なのでした。


今はまだ、新居で生活するっていうだけで楽しいけどね。




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東京で再び働き始めて1か月。 [日本人について思うこと]

東京で再び働き始めて1か月。
思うところはある。
自分が浦島太郎みたいに思うこともある。
4年留守にしている間に、外見だけずいぶん年をとったし、日本で流行っているものもピンとこない。
だいたいなんで制服みたいにみんな同じ格好をしているのだ?
喪中でもないのに、どうしてみんな白、黒、グレー、紺ばっかり来ているの?
それもこれも、価値観が、愛されOL、素敵OL、あこがれられOLみたいな陳腐なステレオタイプに
集約していってしまうからではないだろうかと考える。
東京のバリキャリウーマンってこんな感じ、素敵OLってこんな感じっていうビューが
ここにいるとみんな同じ方向にいってしまうんだろう。
わかる気がする。
私も4年ぶりで、秋服も冬服も4年前のものしかないため、なんかどこか古臭い。
そこで洋服を買いたいなと思ったときに、しかし新入社員ということもあって悪目立ちをするべきではない。
となると、周囲を見渡して素敵に見えた人の模倣に入ってしまう。
あんな感じの服いいな・・みたいにね。
だけど、周りを見回すと、まあまあほんとみんな同じ格好すぎて、、、自分も入隊したみたいな感じになることを思って絶句する。
まあこういう超シンプル服が数年前から流行していることは帰国のたびに感じて、つまんねーーのと思っていたけど、自分も帰国してきたとなると
その流れに乗るようになってしまう自己矛盾。
なんだかねー。
ま、着たいものを着なさいなっていうシンプルな話なんだけど、ここにいるとあっという間に自分の価値観が
スポイルされ、毒されていっていまう危険をすごく感じている。
ちなみに私は超シンプル服は好きである。
好きだった。
でもそれは、みんなが着飾っている時分だったからこそ、映えたというのがある。
みんながみんな究極のシンプルを追求し始めたら、本当に学校制服の世界である。
そして差をつけるのはディテール。。
学生のおしゃれだよね。
ちょっと丈を詰めてみる、みたいな。。。
私も、あいつは愛されOLでもなければ、憧れられOLでもない、ということで、勝手に低く価値を見積もられるだけではなく、
それを真に受けて、ああ私はイケテナイ人間なんだと思ったり、愛されたりあこがれられたりするために努力をしようとしたりしてしまいそう。
まあ私の会社が外資系なので、そこまで・・と思いたいが、どうだろう。
そんなことを思いながら、バリバリのオフィス街から、勝手知ったる新宿へ。
やっぱり新宿は面白いな。
新宿こそ東京だと認識している自分がいることに気づく。
本帰国してからは新宿にはあまり行っていなかったのだが、もっと来ていてもよかったかもと思った。
だいたい新宿ルミネを端から端までクロールし、ユニクロ、無印良品、ZARA、H&M、Forever21もチェック。
そうすると、だいたい今東京の標準的なファッションがどういう感じのステータスなのかというのが、なんとなくつかめてくる。
新宿はそれがやりやすい街。
私はもう大人で、すごくとんがった服は必要ないし、だいたい東京ファッションの流れはすでに
全然追えてないので、新宿リサーチが必要十分なのである。
しかしファッションとは不思議なものである。
今年のファッションの意味はわからなくもない。
売っているものは、すでに私が通過してきたものばかりである。
つまり、それを魅力的に思って着てきた私がいるのだから、それを今かわいい素敵とおもう人がいるのもわかる。
しかし私としてはもう着つくして飽きた流れがあるわけで、新鮮味がない。
ファッションって新鮮味があってこそ成り立つもの。
だからこそ、どんなに素敵な服だとしても、町中の人がみんな着てたら、その時点で新鮮味がないのである。
というわけでね、、、
だからこそやっぱり他人がどういう服を着ているかというのも知らなくちゃいけない。
日本に住んでいたころは自分にとって新鮮=他人にとっても新鮮だからめんどくさいことはなかった。
でも今は違う。
日本に帰国してきたばかりで新鮮に映ったものが、実はみんなが去年着まくったものということもあるだろう。
それでもいいじゃん?とも思うけど、1年後のことを考える。
私はすでに日本のファッションの系譜をつかんできているであろう。
そうなったときに、その服をもう着たくない、と感じるのじゃないだろうか。
それを恐れる。
ちなみに上戸彩がソフトバンクのCMで着ているようなピンク色のVネックのワンピースがすごく素敵だと思って、欲しいと思った。
街中でああいうワンピースを着ている人も素敵に見える。
着ている人はたくさんいるのに、どこで売っているのかよくわからない・・と思っていたところ、
昨日、まさにこういうのだわよ!っていうのを新宿で発見した。
素敵だった。
だけど、それを着ている私を想像してみたら、私は一体どこへ行こうとしているのだろうかと感じた。
芸能人ならいいし、結婚式とか保護者会とか、イベント用ならいい。
でもこれを日常的に末永く着て歩く意味がよくわからない、、、みたいな気持ちになった。
だいたい女性的すぎる。
こんな服を着た女性が、バリバリといいシステムを作るようには見えない。
なんだか無意識に「私は補助的立場で満足しています」というメッセージを送ってしまうような服に見えた。
攻めが足りなすぎる。
きりッと感が足りない。
おしゃれでかわいいし、上品でもある。
だが、そこにカッコよさ、クールさ、知性、オリジナリティもわたくしは求めますが、それはなかった。
まあそんな東京ライフ。
今日は素敵なガーデンカフェを会社の近所に見つけ、気候もすこぶるよく、つかの間の幸せを味わったけど。
まだうまく機能してない。
しかし
そんなことをうだうだと思いながらも、新宿クロールを終えたら
ことのほか気分がすっきりしていた。
東京では、楽しみが物欲に偏りがちになる。
より機能がいいもの、よりおしゃれなもの、、と、尽きることがない
物欲を追い求めながら生活していくことになりそうだ。
それも危機感を感じていたとろではある。
タイには確実に違う生き方と人生の楽しみがあった。
なんだか過食症的である、東京ライフは。
タイではもっと健全な食欲と満腹感があったように思う。
必要十分なものをそろえれば、それでしばらくは満足して暮らせ、
たまに生活への彩として、不必要だけど可愛いものを買ったり、
道具をアップデートしたりする。
そもそもそんなに素敵なものであふれていないから、そういう
健全なサイクルで成り立っていたと思う。
ところが東京ライフはどうだろう。
目移りしようと思えばいくらでも目移りできる。
手が届く距離間に、より新しく、より素敵なものが続々と
アピールされてくる。
消費行動、購買行動に追われる東京ライフを不毛に感じて、
ミニマムライフに移行している流れはあるのだろう。
だけどやっぱり、ミニマムライフには、ではそのぶん生活の楽しみをどこに
持ってくるのか?っということが必要なのだが、それに代わる
楽しみ方が東京には少ない気がするわ。
結局、スポーツやイベントを楽しむしても、そこには
そのためのグッズやファッションに凝るという楽しみ方に
人々は走っている気がする。
料理にしたって、結局は道具や素材に凝る方向に行ってしまう。。
なんか解放されない感じある。
さてずいぶん話が冗長になったが、なぜ新宿クロールが楽しかったか。
結局、foerver21でセール品になっている1000円のセーターを2枚買ったからな気がする。
ファストファッション、すごい。
もっと大事に洋服を買おうと思うけど、今みたいにとにかく
服がないし、みんなと同じ制服みたいな服にお金もかけたくないし、
みたいなときに、なんて便利なのでしょう。
日本は高い。
2週間ほど前、新宿に寄ったときは新宿新南口あたりで、ふと疲労を感じて、ちょっとカフェにでも入って
一服したかったとき、駅前カフェのコーヒーがどこも
400円くらいして愕然とした。
こんな町もういやだと思った。
新宿はカフェ難民になりやすい街。
カフェ難民になるのはとても嫌である。
でも一方で、日本は安くもある。
それになんだかんだと都会の刺激があった。
目に入ってくる情報量が多く、歩くだけで楽しい。
今回はやっぱり新宿付近に住めばよかったかなと思ったりした。
そう、今度は違う街に住む。何はともあれ、これからは部屋作りの楽しみ=東京ライフをどう形作っていくのかという楽しみが出てくる。
楽しみなことは楽しみだ。
だが、すでに東京つまんねーな、みたいな閉塞感を感じつつもある。
もちろん自分のキャパシティのせいもある。
どこにいても楽しみは自分次第で見つけられるというのも半ばは正論である。
とはいえ、半ばは人間を組織でうまく飼いならすための嘘である。
海水でしか生きられない魚を淡水に持ってきても弱って死んでしまう。
自分があう環境に移動して、好きなように生きるべきと私は思う。
だけど、組織とうまく付き合っていかないと人間は生きられないというのもまた半ばは正論。
このバランス、距離感が問われる時代なんだろうなあ。

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ロヒンギャ問題。UNHCRに寄付してみた。 [ミャンマー]

ロヒンギャ武装集団非難の動画をSNS投稿してミスミャンマーが、ミス資格を剥奪されたという報道があった。


ロヒンギャは、虐待されていると全世界をあざむいているが、実態は逆だ!


という告発のつもりで動画投稿したとのこと。


なんたる視野の狭さ、無知、、と思いた


くもなるけど、ミャンマー国内ではこのように思っている人がたくさんいる、少なくとも一定数いるということで、とても興味深い。


おそらくは国内にてロヒンギャジェノサイドを肯定する勢力がそう国民に訴えていて、それを素直に信じて、ロヒンギャ酷い!と彼女は思ったんだろう。


しかし、ロヒンギャ武装集団についての実態を私は何一つ知らないので、そういった存在が本当に凶行に及んでいてそれが問題の一端になっていたのかもしれない。


その動画の正当性を問うために、削除されず、むしろそれが拡散されて、捏造なのか、真実が明らかになったら良かったかもね。


まあそれはさておき、タイに住んでいなかったら、こんなにロヒンギャ問題に関心を寄せることはなかっただろう。


だけど、私にとっては何故かタイに住んでいたというだけで、見て見ぬふりは出来ない、自分にも関わりのある事象と感じられる。


だってそうだよ?

タイで、ロヒンギャの死体が何百人と埋められているのが発見されたりしているのだ。


そしてそれがたいした事件として報道されないのも、タイのおえらいさんなり役人なり、誰かが賄賂をもらって人身売買ビジネスを見て見ぬふりをしていたからに違いない。


というわけで、ロヒンギャが不憫で仕方がない私は、ほかに出来ることがないので、寄付してみた。


問題はどこに寄付するかだけど、UNHCRにした。


国連UNHCR協会という、日本のUNHCR支援団体ではなく、UNHCR本体にした。


別に日本の支援団体を疑ってるわけじゃないけど、寄付を募るための日本での広報活動とかにも彼らは寄附金を使っているのでは?と勘繰るので、より純粋に支援物資などに繋がるのではないかという思いをこめて。


まあ実際はわかりません。

ただ、ダイレクトなほうが、より安心。

なのでドル募金。


Webサイトでペイパルで募金。

便利な世の中。


私は生活に余裕はないのですが、助けになりたい気持ちは本当。


ということで30$、3500円というところが、そのへんの庶民の善意としてバランス取れた。


まあ善意というより、こんだけ不憫だと言いながら何もしないのもないよな、という自分への言い訳料。


どうでもいい飲み会、不毛な愚痴や自慢話を聞かされるだけの飲み会に参加して3500円払うことなんか、この先に人生でいっぱいある。

そう思えばどんなに素敵な3500円の使い方だろう。


少しは気持ちが報われますよ。

何か出来ることを少しはした、という。


まあしかしこういうことは大事よね。

ニュースを見たり、本を読んだりして私たちは何かを感じる。

その感想を言ってみたところで、なにかの行動に繋げなければ世界は変わらない。

ほんのチリのような行動でも、大人数がすれば世界が変わる。

まあ感想をいうことでも、今やTwitterで世の中動かすmovementになる時代だから!

それも意味あるか。


みなさんも良かったらいかがですか?



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